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国際会計士連盟(IFAC) 元会長 日本公認会計士協会 元会長 藤沼亜起 氏「フレンドリーに、フランクに、フェアに。人との出会いが世界を広げる」国際会計士連盟(IFAC) 元会長 日本公認会計士協会 元会長 藤沼亜起 氏「フレンドリーに、フランクに、フェアに。人との出会いが世界を広げる」

フレンドリーに、フランクに、フェアに。人との出会いが世界を広げる

公認会計士・藤沼亜起さんは、日本人として初めて国際会計士連盟(IFAC)の会長を務めた人物。退任後も日本公認会計士協会会長、IFRS財団評議員として、企業活動・投資がグローバル化する時代の会計・監査の望ましいあり方を模索し、世界への国際会計基準の適用をリードしてきた。長年の国際舞台での経験から、グローバルリーダーの原則を語る。

    プロフィール
    藤沼 亜起(ふじぬま・つぐおき)
    1944年、東京都生まれ。中央大学商学部卒業後、アーサーヤング公認会計士共同事務所、監査法人朝日新和会計社などを経て、93年太田昭和監査法人(現・EY新日本有限責任監査法人)代表社員。公的な活動として、85年に国際会計士連盟(IFAC)の国際監査実務委員会(IAPC)日本代表委員に就いたのを皮切りに、2000年に国際会計士連盟会長、04年日本公認会計士協会会長に就任したほか、05年からIFRS財団トラスティー (評議員)、副議長を歴任。18年、日本公認不正検査士協会理事長に就任、現在に至る。

    会計士を目指した学生時代。他大学と交流を広げる

     もともと私が会計士になろうと思ったのは、兄の勧めがあったからです。1960年代の前半頃、日本ではまだ目新しかったこの職業に興味をもった私は、公認会計士試験の合格者を最も多く輩出していた中央大学商学部に進学しました。“名門”の井上達雄教授のゼミにも合格し、公認会計士を目指したわけですが、勉強一本槍だったかというとそうではなく、実はあまり勉強しなかった(笑)。先生方によく呼び出されて叱られていましたよ。

    会計士を目指した学生時代から国際舞台で活躍するまで、人付き合いのスタンスは変わらないと語る藤沼さん。

    会計士を目指した学生時代から国際舞台で活躍するまで、人付き合いのスタンスは変わらないと語る藤沼さん。

     中大で公認会計士を目指す学生達の間にはいくつかグループがあって、受験勉強だけをひたすらやっているグループもありましたが、私がいたのは商学部が運営する「商学会」というクラブでした。そこでは、他の大学と連携して会計学や経営学などの勉強会をしていました。そのころに知り合った他大学の仲間達の何人かは会計士になり、社会人になった後も付き合いが続いており、それが仕事をするうえで役立ちましたね。ちなみに試験のほうは、4年生になりようやく勉強に火が着いて、卒業した年に合格しました。
     会計士になろうと思いはじめたころの私が思い描いていたのは、いずれ自分の個人事務所を開き、税務、監査、コンサルティングなど何でもやる、そんなイメージでした。そのほうが生活が安定するだろうという考えでした。
     しかし、大学を卒業した後は監査実務を経験するべく、堀江・森田共同監査事務所(当時)に入りました。そしてあるとき、大手企業の仕事で国際関係の取引について調べろと言われたんですね。ところが、英文の契約書なんてそれまで見たことがないわけで、どこに何が書いてあるのかを把握するのにも苦労しました。そこで私は、「これからの監査人は、会計以外の知識、特に英語力がなければやっていけない」と気づいたのです。いい監査事務所でしたし、勉強にもなったのですが、教育研修体制がよりしっかりした事務所で自分を鍛えたいと思い、1年ほどで退職。当時のBIG 8と呼ばれた8大会計事務所のひとつ、アーサーヤング公認会計士共同事務所(当時)に転職しました。国際的なキャリアに足を踏み出したのがこのときです。

    外資系大手の会計事務所で、国際畑へ踏み出す

     アーサーヤングには、当時パートナーとして伊藤勝夫先生がいました。伊藤先生は連結財務諸表に関する著書もあり、私が「こういう方から仕事を学びたい」と思い、転職先としてアーサーヤングを選んだ理由のひとつでもあった方でした。しかしいざ入ってみると、噂されていたとおりの“変わり者”で、仕事に関しては厳しい方でした。入社時に、英文の監査マニュアルをぽんと渡されて、勉強しておけと言います。監査調書はすべて英語で書かなくてはいけないので、監査先企業での会議で取ったメモをもとに、家に帰ってから英語で調書づくりをする。大変でしたが、実務面では鍛えられました。
     一方、外資系の事務所でしたので、英語の読み書きに関する研修は手厚かったですね。事務所の研修で英会話学校にも通わせてくれました。学校は自分で選べたので、私は本郷にある学校に通いましたが、傘下にフレンドシップ・クラブというものがありました。そこには米国大使館にアメリカからやってくる研修生がいたため、彼・彼女らと一緒にスケートに行ったり、泊まりがけで遊びに行ったりして、外国人との付き合いにも慣れていきました。
     アーサーヤングでの8年目、私は当時32歳でしたが、事務所から声がかかりベルギーのブリュッセルにマネージャーとして赴任することになりました。結局3年間いました。最初の1年はカルチャーショックで10kgくらいやせましたよ(笑)。でも、2年目からは様子が分かってきて、同僚とも打ち解けましたし、ヨーロッパベースのセミナーやマネージャー研修で出会った人達が後に各国事務所のトップになったりして、貴重なコネクションができました。これが後の仕事にも良い形で影響を与えたと思います。

    国際会計基準の統一というビジョンを現実に

    国際会計士連盟会長、日本公認会計士協会会長などの公職を務めた後も、IFRS財団で国際会計基準の世界的な適用促進に尽力した。

    国際会計士連盟会長、日本公認会計士協会会長などの公職を務めた後も、IFRS財団で国際会計基準の世界的な適用促進に尽力した。

     ベルギーから帰国した翌年の81年に、35歳でアーサーヤングのパートナーになりました。その後84年、私は日本公認会計士協会の要請を受け、中地宏氏の後任として国際会計士連盟(IFAC)の最も重要な委員会のひとつ、国際監査実務委員会(IAPC)の日本代表委員に就任しました。IAPCでの仕事は、各国から選ばれた監査の専門家の方々と「監査の国際的ガイドライン」(IAG)の開発をすることで、苦労しましたが、良い方達との出会いもありました。
     92年にIFACの理事会メンバーになりました。IAPCでの経験が買われたのかどうか分かりませんが、当時の会長、Peter Agars氏が新任の私をノミネーティング・コミッティーの委員に任命してくれました。これは、IFACの理事や各委員会の委員を指名する重い責任を負うポジションです。最初の2年半の任期を終えた後、2期目はエグゼクティブ・コミッティーの委員を務めます。ここでは会長を補佐する役目を担うのですが、そのころから、私が「IFACの副会長に立候補するのではないか」という噂が立ちます。副会長になると、よほどの問題が起きない限り、次は会長に就くのがIFACの暗黙のルールとしてありました。
     噂を聞いたときは「冗談か」とも思いましたし、自分がIFACの会長になるとは思っていなかったのですが、当時、IFAC理事会への私の帯同アドバイザーだった人から「それは素晴らしい話だ。絶対に出るべきだ」と諭され、理事として実績を評価されてのことなら期待に応えようと腹をくくり、立候補することになったのです。そうして97年にIFACの副会長になり、2000年には会長に就任しました。
     02年に会長を退くまで、18年間IFACの活動に携わったことになります。最初は会計士のコア業務である監査を中心とした基準設定や倫理規定への関与、エグゼクティブ・コミッティーの委員になってからは、IFACの全体的な活動、例えば、理事会、コンプライアンス、教育研修などの活動にも目を配り、副会長就任以降は外部委員(世界銀行など)を含むIFACの構造・組織改革委員会の責任者を務めました。会長時代はIFAC改革案の実行に取り組み、また、当時の世界の5大会計事務所(BIG 5)や証券監督者国際機構(IOSCO)などとの連携の強化に乗り出すなど、いろいろな仕事をしてきました。その後、04年からの3年間は日本公認会計士協会会長を務め、また05年にはIFRS財団の評議員にもなり、継続して国際的な活動に携わりました。IFRS財団での約10年弱の期間は、国際会計基準(IASやIFRS)を支援するための財団運営と、国際会計基準の世界的な適用促進に努めてきました。
     01年にIFRSが国際会計基準の設定機関として創設されてから20年も経たないうちに、今では世界140カ国以上、9割近くの国で適用されるに至りました。これに尽力してきた関係者は私も含め、今の状況を指して「Vision to Reality」、ビジョンが現実になったと言っています。ビジョンを諦めずにやり続ければ、思い描いた世界を実現できるのです。

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