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フォトジャーナリスト NPO法人Dialogue for People副代表 安田 菜津紀 氏「コミュニケーションは相手との関係性ありき」フォトジャーナリスト NPO法人Dialogue for People副代表 安田 菜津紀 氏「コミュニケーションは相手との関係性ありき」

コミュニケーションは相手との関係性ありき

16歳のとき、NGO「国境なき子どもたち」が派遣する「友情のレポーター」としてカンボジアを訪れたことをきっかけに、写真で伝える活動を始めた安田菜津紀氏。現在、フォトジャーナリストとして、東南アジア、中東、アフリカ、日本国内で貧困や災害などを取材、脆弱な立場に置かれた人たちの声を伝える一方、ラジオやテレビ、ウェブなどさまざまなメディアで発言を続けている。その旺盛な行動力と確固たる信念はどのように培われたものなのか。世界各地の人の言葉に耳を傾け、写真に収めてきた安田氏に、これまでの歩みを聞くとともに、今、日本人に求められていることについて語ってもらった。

    プロフィール
    安田菜津紀(やすだ・なつき)
    1987年神奈川県生まれ。NPO法人Dialogue for People(ダイアローグフォーピープル/D4P)所属フォトジャーナリスト。同団体の副代表。16歳のとき、「国境なき子どもたち」友情のレポーターとしてカンボジアで貧困にさらされる子どもたちを取材。現在、東南アジア、中東、アフリカ、日本国内で難民や貧困、災害の取材を進める。東日本大震災以降は陸前高田市を中心に、被災地を記録し続けている。著書に『写真で伝える仕事 -世界の子どもたちと向き合って-』(日本写真企画)、他。上智大学卒。現在、TBSテレビ『サンデーモーニング』にコメンテーターとして出演中。

    相手の時間、言葉、経験をいただいたお返しを

    弱い立場の人たちの側に立ち、社会に対して提言していくことが自分の軸だと語る安田さん。

    弱い立場の人たちの側に立ち、社会に対して提言していくことが自分の軸だと語る安田さん。

     私がフォトジャーナリストとして活動するきっかけとなったのは、高校時代、「国境なき子どもたち」という団体が派遣する「友情のレポーター」としてカンボジアを訪れたことでした。参加理由はとても私的なもので、中学時代に父と兄を相次いで亡くし、「家族とは何か」という問いの中にいた私は、家と学校の往復の中では見いだせなかった答えを見つけたかったのです。思えば、とても自分本位な生き方をしていたと思います。そんな私が現地で出会ったのは、人身売買や虐待の被害に遭うなど、過酷な状況を生きてきた同世代の子どもたちでした。そもそも取材というものはすべてが“いただきもの”。相手の時間、言葉、経験をいただくわけです。つらい経験を思い起こし、一生懸命言葉にして、経験を分けてくれたことに対して何が返せるのか。私は、帰国後、思いつく限りの新聞社や出版社に「記事を載せてほしい」とアプローチしました。行動力とか使命感というものではなく、現地で築いた人間関係の中で湧いた感情が、自然と行動に駆り立てたということだと思います。

     そのときはまだ「これが自分の仕事」という意識はなく、あくまで「伝える活動」でしたが、より弱い立場に追い込まれてしまっている人たちに携わる仕事がしたい、という大まかな方向性は、当時すでに自分の中に見いだしていたのかもしれません。高校、大学と活動を続けていく中でフォトジャーナリストという存在を知り、「伝える」ことが仕事として継続できるものだと分かったことが今につながりました。このコロナ禍でも、小さな声は見過ごされがちです。給付金の件では、マイノリティーの人たちが受給対象から外されたり、DV被害者に届かなかったりといった問題が浮上しましたが、当事者たちは自ら声を発することがなかなかできません。こうした問題は社会の中で広く共有されて初めて問題視されます。脆弱な立場に追い込まれてしまっている人たちの側に立ち、社会に対して「考えるべきことがある」と提言していく。それが私の軸だと認識して活動しています。

    相手が傷つかないような心の扉の叩き方

      世界の人たちとの交流で重要なのは、やはりコミュニケーション力でしょう。海外に取材に行く際には基本的な日常会話程度は覚えていきます。通訳を介して取材することももちろん必要ですが、相手の心の揺れ動きやニュアンスを把握するには、やはり現地語は理解できた方がいい。ただ、取材でいちばん大事にしなくてはいけないのは、自分がこうしたい、こういうことを伝えたいという気持ちより、相手の伝えたいことをどう受け止めるかです。「あなたのことをもっと知りたい」「あなたの考えを聞かせてほしい」という気持ちが伝われば、共通言語がない状態でもジェスチャーや表情で意外とコミュニケーションできる。私はそのことを初めてカンボジアを訪れたときに学びました。逆に、同じ言語を話していても、相手のことを知りたいと思わない限り、コミュニケーションは生まれません。コミュニケーションは言葉ありきではなく、「あなたと私」という関係性ありきなのです。

    カンボジアで出会った女の子。

    カンボジアで出会った女の子。
    ©NatsukiYasuda/Dialogue for People

     相手に思いを伝えるときに、その人が不快ではない方法、その人が傷つかない心の扉の叩き方を選ぶこともとても大事です。私は常にお邪魔させてもらう立場なので、特に初めての場所に行くときには、信頼のおける人にどういう文化を持つ地域なのか、何が失礼に当たるのかなどについて話を聞いたり、家にお邪魔した際の作法を教えてもらったりします。カンボジアも文化圏としては日本に近いように見えますが、初めて訪れたとき、子どもの頭を「よしよし」と言って触るのはよくないということを知って驚きました。頭には精霊が宿っていると考えられているからです。こちらが何気ない愛情表現のつもりでしたことも相手に強い抵抗感を生むことがある。自分の価値観や“当たり前”を押し付けることで、相手がびっくりしたり傷ついたりする可能性があるということは常に頭に置いておくべきでしょう。生活の一部を共有させてもらうこともコミュニケーションを取る上で大きな意味を持ちます。中東では特に、人の家に招かれることが多いのですが、「あなたの地域の文化を尊重しています」と言葉で100回言うより、一度同じ食卓を囲んで「おいしいですね」と言う方がずっと気持ちが通います。

    つらくてもあえて割り切らず葛藤を続ける

     カメラを向けることには常に自覚的でいようと心掛けています。忘れられないのは、過激派勢力であるイスラム国との戦闘が激しかったイラクを取材したときのこと。病院には子どもたちも含め救急患者が次々運ばれてきて、彼らのうめき声、ご家族の泣き声、看護師さんたちの怒号のような声が飛び交う現場で、正直、私は何をしていいのか分からなくなっていました。そのとき、子どものお父さんと思しき男性に言われたのです。「お前はここにいる子どもたちが兵士やスナイパーに見えるか。見えないなら、ちゃんと写真を撮って帰れ」と。私はハッとしました。ここで私にできるのは、写真で伝えることだけ。私はその最低限の役割を勝手に放棄していたことに気付いたからです。ただ、それでもフォトジャーナリストだから撮影して当然とは思わないようにしています。ここでカメラを構えていいのか、本当にこの撮り方でいいのかと考え続けることはしんどいし、割り切れば考えなくて済むので楽です。でも葛藤をやめれば、相手の生活圏や相手の心に土足で入っていくことになるかもしれない。そもそもカメラを向けられることを威圧的に感じる人もいます。特に脆弱な地域で暮らしていたり、戦火から逃れたばかりだったりすれば、抵抗感があって当然でしょう。

     伝え方にも葛藤はあります。大きな転換になったのは東日本大震災でした。震災後、私は義理の両親が暮らしていた岩手県陸前高田市の被災地に入ったのですが、それこそシャッターを切っても瓦礫は片付かないし、避難所の人たちのお腹を満たすこともできない。何をしていいのか迷っているとき、7万本あった中で津波に耐えて残った1本の松の木を見て、これこそ力を与えてくれる希望の象徴だと感じて夢中でシャッターを切りました。その写真が新聞に掲載され、これでようやく陸前高田のことが伝えられたと思ったのですが、それを見た義理の父の言葉は思いがけないものでした。「7万本の松と共に暮らしてきた私たちにとっては、あの松は、1本しか残されなかった凄まじい津波の威力の象徴以外の何物でもない。見ていてつらくなるし、できれば見たくなかった」と。もちろん父の意見が街の人の総意ではありません。希望の象徴と捉えて心の支えにしている人たちもいます。何をしてほしくて、何をしてほしくないのかは、現地の人たちとコミュニケーションを取りながらでないと分かりません。私はそのときから、写真を提示する段階で、現地の人たちの声を聞いたのかともう一度自問するようになりました。父のような考えもあると自覚して写真をアウトプットするのか、これは希望だと自分本位にアウトプットするのかで、タイトルや添える言葉は全く違ってきますから。

     私のオフィシャルサイトに添えた「いつも心にお日様を。」という言葉は、大学時代にお世話になった人にいただいた言葉です。過酷な状況をストレートに伝えるのも大事ですが、それだけでは、もともと興味のない人たちは「そんなつらいものは見たくないし、知りたくもない」と心のコートを着込んでしまう。『北風と太陽』の物語のように、心のコートを脱ごうと思うのは、北風に煽られたときではなく、例えば人々が日常の何気ない瞬間に見せる表情など、陽光のような暖かいものに触れたときですよね。限られた情報を伝えるニュースでは、難民キャンプのつらい環境など、“私たちと違う”ことが強調されがちですが、そこには大切な人と食卓を囲む喜びがあり、子どもたちが学校で先生に叱られる日常がある。こうした“私たちと同じ”部分が削がれてしまうと、いつまで経っても「遠い国の何か大変そうな問題」という捉え方しかされません。太陽の暖かさは北風の冷たさを知ってこそ実感できるものでもあるので、北風の部分、太陽の部分、両方を伝えることは常に意識していますね。

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